DREAMS Award 2012 第2回作文コンテスト 受賞作文 優秀賞 佐藤 仁子(さとう きみこ)さん(宮城県 60歳)

「サム君  ありがとう!!これからも宜しくネ」

 幼少の頃から痛み、脱力感で一週間のうち一日は床に着いていた私が「多発性硬化症」と診断されたのは昭和45年4月、東北大学神経眼科の桑島先生のおかげでした。長期の入院の末、ほぼ以前の私の身体にまで回復する事が出来ました。47年1月に私は病気ですと会社に話しての勤めが始まりました。
 私の「サム君」と出会ったのはそれから1年ほど後の事。物しずかでいつもニコニコ人の話を聞いている人でしたが、たまたま昼食を一緒に食べ喫茶店でコーヒータイム。一言も話さずジャズを聴き入っている彼を見て「結婚した人は退屈だろうなぁ。彼と結婚する人いるのかしら」なんて・・・。「え!私?」そんな私がまさか・まさかの結婚。同僚に「一緒になって大丈夫?」我ながら信じられませんでした。それでも母の「嫌いでなければ結婚しなさい。病気でも構わないと言ってくれる人なんてめったにいないから」。48年10月に私達は結婚しました。主治医から「結婚は精神が安定するから良いが子供は今まで出産例がないから産まないようにね」・・なんて言葉は棚の上、結婚したからには子供を産まなきゃ。その年の暮れにやっぱり流産。先生に「ほら見なさい。流産して当たり前、流産、堕胎、出産も危険だからね」と。え!え!・・言う事は妊娠したら自然に任せるしかない・・・じゃぁ「出来たが勝ち」と瞳の奥でキラリン!と輝きました。サム君が私の身体を心配して私の実家で生活することになりました。50年1月長女出産、これがなんと弛緩出血。それに気付いたのが大学病院からの弛緩出血の患者の追跡調査。「あら!私あぶなかったのね」。55年長男出産。これがまた前置胎盤、早期胎盤剥離。そんな私の為に夜のミルク、おしめ交換、洗濯としっかりしてくれました。出産のたびに再発、それでも必ず良くなると思ってました。視力は再発を繰り返すたびに見えなくなり痛みも残るようになりました。
 子供達が学校時代は眼が不自由になるまではPTA役員を続けようと決めてましたがPTAの仲間が「きみちゃんがしてくれるなら一緒にするから。アッシーするから」てな訳で卒業まで続けました。楽しかった。子供達のおかげでごく普通の母親として成長する事が出来ました。私の両親の介護、3年前には父が他界、母の介護だけとなりました。
 結婚39年が過ぎサム君の後押しを受けて私は今患者の会の役員、JPA(Japan Patients Association:日本難病・疾病団体協議会)の理事、そしてパレットkty(キティ)「障害者のリハビリで作った作品の展示会を全国で開催」の活動、自分たちで作った作品を自分たちで展示する。今まで外に出るのをためらっていた仲間が電車、飛行機に乗って集まってくる様になりました。仙台が本拠地。毎年9月に一週間程開催。その会場作り、作品の搬出入、パネル設置、作品の配置などなど総てサム君が引き受けてくれます。
 今年で11回目、この会はリウマチ、パーキンソン、脳梗塞、交通事故、介護認定をうけた方など様々、そうです。どなたでも(会員以外でも)参加展示出来るのです。40代から88歳まで全国で総勢35名、楽しい大切な仲間です。
 この活動を通して私は障害者が安全に交通機関・ホテルを利用し、バリアフリーでなくともいかに安全を確保するか・・ちょっとした段差でもホテルに事前に連絡を取り手配すれば十分に対応できる事を学びました。道路・建物のバリアフリーも大切、けれど本当は大勢の人々の心のバリアフリー「ちょっとしたお手伝い」そして私達障害者自身が心を開きまわりの方々に「お手伝いをしてください」と声を出す事、「お手伝いありがとうございます」の感謝の言葉が一番必要なのだと思います。
 今、視力1級、身体2級の障害があり、歩けるはずの無い私が杖で一人で交通機関を利用し外に出かけるだけの勇気と行動力を保っていられるのは、サム君のおかげです。定年退職を機に総て私の体調に合わせて、買い物・家事を手伝ってくれます。サム君あなたが居て、母、娘、息子、孫3人、8匹の猫達、8人と8匹の大家族は守られています。
 結婚して良かった。サム君あなたと一緒にいられて良かった。時々サム君は「幸せなのかしら?」と不安になったりします。「ううん!サムくんは私といられて幸せなんだ!!」
 ありがとう・ありがとう大好きよ!!の毎日です。今日も私の感謝の気持ちを添えて携帯に「大好きよ!!」と入れよう。